復讐は悲嘆の怠惰な形態。
映画「ザ・インタープリター」
12月14日
先日、ニコール・キッドマンとショーン・ペンが主演する映画「ザ・インタープリター」を見ました。その中でニコール扮する国連職員がこの言葉を語るのですが、その前にアフリカのクー族の風習を説明しています。(クー族は、映画の中だけの存在だと思いますが)
クー族は、殺人犯に対してある儀式を行う。喪が明ける時、犯人を縛って船から川に落とす。
遺族には、ふたつの選択がある。
1)正義を果たすため犯人を溺れさせて、一生喪に服する。
2)人生は必ずしも正義だけではないということを受け入れ、犯人を助けて喪を解き、悲しみから解放される。
・・・これは、とても難しい選択です。しかし、クー族は、犯人を助けることが悲しみを克服するための方法だと信じているのです。その事件を過去のものとし、未来へ進み続けることが。
そこで「復讐は悲嘆の怠惰な形態」という言葉に戻りますが、これは遺族の人が復讐したいという気持ちを「怠惰だ」と非難しているわけではないと思います。ただ、復讐という手段は手っ取り早いものでありそういう気持ちを持つのは自然であるけれど、それが私たちの助けとなるわけではないということでしょう。
身内の殺害とまでいかずとも、私たちの人生には復讐や仕返しをしたくなるようなことが幾度も起こります。しかし、そのような気持ちを持ち続けることによって一番傷つき、害をこうむるのは自分だということを、この映画は言いたいのでしょうね。
とても考えさせられました。
サスペンス映画としてだけではなく、この角度からも「ザ・インタープリター」を見てみると良いのではないかと思います。